やずやグループ 西野博道という男の生き様〜やずやとの出逢いは天命か〜

石郷“145”マナブ [PR]

 日本人の誇りである“おもてなし”。それをビジネスの中で実践し、いまやそれがその人を表現する代名詞となった。やずやグループ未来館の社長西野博道さんである。その人は、年齢の垣根を越えて、まるで親友のように振る舞い、屈託のない笑顔を浮かべ、様々な人から慕われ頼りにされる、いい意味で“人たらし”の人である。

 彼にまつわるエピソードは絶えない。やずやの部長時代に、お客様と街中で遭遇して、そのまま家まで行ったといったエピソードもあるくらい、出会う人を心から信じる真の優しさで溢れている。でも、なぜにそんな西野博道さんになったのだろうと、想う。

会社を経営するも、1億円の借金

 どんな生き方をして、どんな人生の歩み方をしたから、今があるのか。それに対する答えとして、彼が元から、根っからのやずや気質だったかと言われれば、実はそうではなかった。そう言うと、意外に思われるかもしれない。

 もともと西野さんは自ら会社を経営していた。松下電器製コンピュータの代理店の他、整備工事の会社、コンピューターの開発やシステム構築、並行して人材を育てるスクールを下関で4校作り、求人情報誌も手がけるなど手広く事業をやったが、借金は1億円まで膨れ上がっていた。

 そんな中にあって、西野博道さんと「やずや」の出会いは、まさに偶然だった。しかし、彼はこの偶然によって、その価値観を180度、変えていくこととなる。若い頃ではなく、もう人生の中では考え方も固まり始めているであろう42歳の頃だと言うのだから、人生は分からない。

 「やずや」の出会いは、すなわちやずやの創業者である矢頭宣男さんとの出会い。宣男さんとは普通に出会えるような人ではないのだが、両者は、赤い糸で結ばれていたようだ。西野さんは自らの事業で1億借金することとなり、起死回生の取引先を探すという不純な理由から、当時、福岡で開催されていた中小企業家同友会というイベントに参加した。

 一方、矢頭宣男さんは、健康食品の事業で再スタートして、6000万〜1億2000万円、2億と、急成長していて、注目され始めた存在だった。両者には大きな差があったはずだが、この会で一人下関から来てポツンとしていた西野さんに宣男さんが声をかけた、それが偶然の始まりだった。

180度変えた、矢頭宣男との出逢い

180度変えた、矢頭宣男との出逢い

 矢頭宣男さんとの出会いは、西野さんの何を一番変えたのか。すると照れ臭そうにこう切り出した。「今でこそ、人へのおもてなし、思いやりだなんていってますが、昔は、全然違いました。なぜなら、コンピュータは、売ってからも、いつまでもお客さんのところにいると、どんどん色々言われてしまって、他に営業に行かれないから、なんです。当時、私のやっていた仕事は代理店だったので、松下電器にとってみれば『何台売ったのか』の方に関心があるわけなんです。だから、納めたら、できるだけ早くさっさと人から逃げていました。今と真逆ですね」と笑う。

 そして、一言ポツリとこう呟くのだ。「私にとってあの人との出会いは偶然だったが、運命なのではないかと今でも思う」と。そこまで言う西野さんに「矢頭宣男のどこに惚れたのか」と聞くと、こんな答えが返って来た。「宣男さんは、答えを教えてくれない人」と。

 つまりこうだ。「社長、どうしたらいいですか?」といっても「君はどう考えているの?」「こうするってことはどういうことなのかね?」と、引き出すということに注力したというのだ。「そうやって、引き出されると、自分で意思決定しているわけですよね。自分が意思決定しているから、やらざるを得ない。次第に、社員の方が、やりたいみたいな雰囲気に変えていて、そこが一番、印象に残っている」と答えた。

 質問力に長けていて、この人といると、自然とモチベーションが高くなる。誰かにやらされることなく、自分の意思で決めた事だから、よしやろうという事になる。やずやの社員が皆、高いモチベーションを持っているのは、自分の意見で会社を動かしているという実感があるから、だろう。矢頭宣男さんのそんな魅力は、いまもしっかりやずやの成長を支えている。

いつまでもチャレンジャーでありたい、西野博道の原点

いつまでもチャレンジャーでありたい、西野博道の原点取材当日も、通販では珍しく、本社に買いに来るお客様に遭遇したが、お客様もやずやも、いつものことといった風で、その距離感の近さに驚かされた。

 とはいえ、矢頭宣男さんの力だけでは今の「やずや」はなく、そこに西野博道さんの「いつまでもチャレンジャーでありたい」という想いがあり、それらがあいまって、今のやずやを形成していると思うのだ。

 彼がチャレンジャーたる印象的なエピソードとして、今まで「やずや」がハガキやカルテでやっていた仕組みを、コンピューターに置き換えなければならなくなった時のことを挙げたい。コンピューターの導入にあたっては大手2社のコンペがあり、中小企業であり、福岡から遠い下関に事務所を構えていた西野さんの会社は、当初、採用されるはずがないと思われていた。しかし、結果は違った。西野さんのチャレンジャー精神が勝ち得た見積もりだったのだ。

 西野さんだけは、他の2社と決定的に違かった。社員と一緒に仕事をして、どんな仕事をしているか見たい、とずっと会社に泊まり込んだのだ。「情熱みたいなものはなかったですね」と笑いながらも「でも、私はなんでもやりたがりで、チャレンジャーであり続けたいという、変わらぬ想いはあった。だから、なんでもやれて来た」と付け加えた。西野さんに言わせれば、「仕事をやっている具合がわかれば、あとはその通りに、コンピューターのシステムを組んでいけばよかったわけで、それはそんなに難しいことじゃない。あとは力仕事なのです」と、そのバイタリティーに対して驚く声も意に介さない。

西野博道の生きる道は「やずや」にあった

西野博道の生きる道は「やずや」にあったこの社屋には西野さんが“やずや”に打ち込んだ軌跡がある。

 どんなに逆境でも、新しいことに好奇心を持ち、行動に移す、そのチャレンジャー精神があったからこそ、他の大手にはないものが提案できた。そして、それはその時だけではなく、西野さんは、導入されてからも、しばらくはやずやに泊まり、ずっと続いた。

 「最初は社長室の机の前が、ちょうど布団一枚を敷けるスペースだったので、そこに敷いて、社長室に寝てました。次のビルを作った時には、社員の休憩室が夜は空くので、休憩室で寝てました。2つ目のビルの時は、大きな5階建だったので、創業者が『西野くんの部屋を作ってあげよう』ということで、5階建ての予定を6階建てにして、6階に私のワンルームマンションを作ってくれて、だから快適ではあったんですよね」とさらりと言ってのける。

 これを52〜53歳の時までやっていた。「あの頃は休みは日曜しかなかったから、土曜の夕方帰って、日曜の夕方に戻ってきて。単身赴任ですね」と話す、彼の言葉の裏には、大変だったということよりも、彼がそこまで打ち込める、天職に巡り会えた喜びのが大きく感じられた。

 思えば齢42歳にして、彼の人生の本当の意味での行く末が決まろうとは、彼も思わなかっただろうし、やずやとの出会いは、借金を抱えていた彼の人生にとって“救いの神”であったのだ。ただ、失敗も含めて、それまで培ってきた自分の事業での経験もまた、結果的には、全てやずやで生かされ、しっかり消化されていて、僕は、西野さんの存在もまた、「やずや」にとっても“救いの神”であったのではないかと思う。

西野博道はいかにして、変わったのか

西野博道はいかにして、変わったのか

 そして、西野さんは、冒頭話した通り、矢頭宣男さんと出会った頃とは違う風に、人間的に、少しずつ変化し始めていくわけである。だが、西野さんはどういう過程を得て、変わっていったのかが気になり、その点も尋ねると西野さんはユニークな表現で一言寄せてくれた。

 「それはですね。矢頭宣男の“そっくりさん”になろうと思ったんです」。

 「この人、素晴らしいなと思ったのです。いつしか、この人の“そっくりさん”になろうと思いはじめました。私は、いつもスタンドカラーのネクタイを締めるんですが、あれは矢頭宣男さんがそうだったからです。たばこも宣男さんがTENDERという銘柄を吸っていたので、それまでハイライトを吸っていたのをやめて、変えたんですよね。宣男さんのやっていることの真似を徹底的にしましたね」と続け、その話す姿は、なんだか嬉しそう。

 真似して行くと段々と理解できてくる。矢頭宣男さんは全くコンピューターを扱えない人で、電卓だけだったので、挨拶文とかか何から何まで、西野さんが全部入力していた。そのうち宣男さんの口調がわかるようになってきた。こうきたらこうくるな、というような感覚を。

 矢頭宣男の果たせぬ夢や未来は、西野博道さんだからこそ、きっと果たされている。やずやが年商100億円を達成したのも、矢頭宣男さんがいなくなってから、の事だ。勿論、現会長の矢頭美世子さんや、現社長の矢頭徹さん無しに今はないが、もう一人、この西野博道という男なしに今のやずやはなかったと言うことはできる。

西野博道の挑戦はまだ“未来”へと続く

西野博道の挑戦はまだ“未来”へと続く

 挑戦とは、自分が矢頭宣男さんが教えを受けたものを、今度は、自分が次なる世代へと伝えていくということだ。通販王国、福岡では、自分の得た情報を惜しみなく共有し、共に切磋琢磨する文化がある。それゆえ、西野さんは以前から九州で勉強会を重ねている。福岡で一旗あげた矢頭宣男さんなら、それもきっといづれやりたいと口にした事なのかもしれないだろうし、それを西野博道さんがこの勉強会を手がけているのもうなづける。

 矢頭宣男さんの「人」を大事にする“リズム”はしっかり生きていて、西野さんの心にも根付いているだけでなく、それは、今の時代にふさわしく“編曲”されて、多くの人に支持されている。矢頭宣男さんによって産声を上げ、やずやスピリッツは一皮剥け、今のやずやを支える西野博道さんは、また彼なりに今に必要な新たな風を送り込む。彼が築いてきた“貴重な情報を伝授したい”という想いは次の世代へと託すまで、未だ終わらない。

 西野さんには、100億円の通販を築き上げてきた知見があり、それを、通販100億円勉強会『西野塾』として、福岡を飛び出し、東京でも次の世代へと伝えていこうという。この通販100億円勉強会『西野塾』から、第二のやずやを輩出することになることは間違いない。


記者プロフィール

石郷“145”マナブ

キャラクター業界の業界紙の元記者でSweetモデル矢野未希子さんのジュエリーを企画したり、少々変わった経歴。企画や営業を経験した後、ECのミカタで自分の原点である記者へ。トマトが苦手。カラオケオーディションで一次通過した事は数少ない小さな自慢。

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