【第2回】EC素人集団 「米・雑穀のみちのく農業研究所」
ECを始めて実質3年の素人集団が「楽天ショップ・オブ・ザ・イヤー2015」と「ふるさと名品オブ・ザ・イヤー」受賞するまでの軌跡・・・・
【第1回】EC素人集団 「米・雑穀のみちのく農業研究所」
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「ネットショップが輝く『楽天市場 ショップ・オブ・ザ・イヤー』https://ecnomikata.com/ecnews/strategy/7871/
「地方の名品を発掘!ふるさと名品オブ・ザ・イヤー」
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人生で最も一緒に車中泊した男「中島秀洋との出会い」
前回お話した中で3年で返済する決心と書きましたが、結局この目標は達成されることはありませんでした。4年かかりました。返済時26歳この間に忘れてはいけない存在が私にはいました。「中島秀洋」(1981年3月31日現在35歳:東京生まれ)です。彼は今、当社の取締役本部長に就きながらも、自社サイト「みちのく農業研究所東北総本店」、楽天市場「米・雑穀のみちのく農業研究所」、Yahoo!ショッピング「米の将軍」、Amazon「宮城みちのく農業研究所」を統括する総合店長であります。
彼とは私が16歳の時に出会い、そこから17年間、ある時は私の家に泊まり込みながら、ある時は経費削減のため車中泊を1週間以上も共にして生きてきた歴史がありました。この男当時「TEKKEN・鉄拳」というプレステのゲームキャラを育成させたらとんでもない無敵の吉光(キャラクター名です)を作りだす、いわばゲーマーでした。でも彼は暗いゲーマーではなく「しゃべれるゲーマー」で、彼無くしては今のEC界への出店は無かったと思います。
彼はいつも私のそばを片時も離れることなく、当時の安い給与でも愚痴ひとつ言わず、私と仕事をしてくれました。そんな彼にも私はこの多額の借金については明かすことなく、ずっと共に働いてきました。
そんな借金返済の開始から4年目のある日、顧問税理士先生より「洋平さんよくここまで挽回しましたね、これからは税金の支払いの心配をすることになりました。ここまでお疲れ様。」と声をかけられたのが今でも耳に残っています。この瞬間が私の借金返済を達成した瞬間でした。月給10万円のサラリーマンが多額の借金の保証をし、返済のあてもないのに気持ち一つで人生を逆転した瞬間でした。飛び込み営業や門前払い、真冬の秋田でホテル代金を節約するために公園の駐車場で車中泊し、翌日大雪で車のドアが開かなくて窓から雪を掘って出たこと。たくさんの節約や辛い思いがよみがえりました。
そして借金返済計画開始から5年目、私の勤務した会社は借金の返済を終えるのは勿論のこと、所轄税務署管内より公示される企業となりました。お金がすべてではないのは勿論ですが、この4年間に沢山の方にお世話になり、商売を教えていただき様々な形で助けていただいた事、中島秀洋がずっとそばに居て支えてくれた事、今も誠に感謝しております。今思えばECも実店舗での運営や会社経営の中で最も大切なのはやはり「人」なのだと思います。
米業界の年々止まらない急激な米価の下落
米業界に私が飛び込んだ20歳頃、宮城県産のひとめぼれは、確か取引価格は玄米価格で1俵当たり18,000円くらいしていたと記憶しています。それが年々米価が下落し、28歳頃には1俵14,000円を割り込む市場取引価格に落ち込んでおりました。
原因は過剰な作付け、少子化による消費の減少・輸入穀物(小麦)の増加など、多様な食品に対応するスーパーマーケットの激戦による価格破壊など、日本人の主食の米穀業界は冷え切っていました。そのしわ寄せは、最終的に全て生産地に行きました。生産地に行くということは=生産者(農家)の所得減となる。ということです。その当時の私は米の流通業界に席を置きながらいつも矛盾を感じ続けていました。東京の米穀店に自身の営業成績が欲しいがために、米を安くする営業によって、間接的に誰かを泣かせる。これはいつまで続くのか・・・・?。
コメの主産地東北で私は直接的ではなくてもコメ農家をたたき、より安いものを毎日追いかけ、「士農工商」という言葉の通りの生き方に何か味気無さや罪悪感まで感じてくる。「戸惑い」や「社会性」に、自分がやっていることはミスマッチしているのではなかろうか?誰の役にも立っていないのではないか?と、誰もがこころから「ありがとう。おかげさまで」といってくれる仕事に近づけていない自分の将来に不安を感じる日々を送ってました。
生産者をいじめ尽くすことへの矛盾の限界~「お米のトーコク独立開業へ」~
これまでの私の米に携わるポジションはいわゆる「中間流通業」と呼ばれる米の卸売り販売で、もっとわかりやすく言えばお米屋さんにお米を販売するいわゆる原料屋さんでした。
そんな私が29歳になり、収穫の秋を迎え全国的な穀物相場は新米が古米より安い、歪な環境下になってました。
新しいものが古いものより安いということは電気製品では有りうる話ですが、食品ではよくある話なのであろうか?生産者は1年かけてわが子のように手塩にかけて育てたお米を果たして去年の古米より安く手放すことに笑顔で「ありがとう」といってくれるだろうか?などそう考えたら私は何とかして生産者が「ありがとう」と言ってくれる活動をした方が自分の精神状態もとても健全でいられるし、何より「人に役立っている」ということを実感できるだろうと率直に感じました。
ある日のことです。私は前にお話した通り貧乏生活が長かった為、移動は新幹線などといった贅沢はできず、全て自家用車で行っておりました。(とはいえ行動範囲は北海道から静岡くらいの間ですが)この年に新幹線というものを久しぶりに乗って東京から仙台へ帰る車中で私はこれからの人生の選択を大きく変える出来事を目にしました。列車は上野駅まではたくさんのビル群が車窓から映し出されそして大宮駅を超えた瞬間にそこから先は見渡す限りの田園風景。更に郡山駅を越え宮城県にさしかかったら地平線と勘違いする位の見渡す限りの田園の広さに、これまで気づけなかったことにふと気づきました。その違和感の方程式はこうです。
自家用車は時速100キロ程度で窓の景色は流れているため緩やかに風景が変わっていくから、東北の田園の広大さが徐々に変化してくるので違和感を感じない。しかし新幹線の場合は時速300キロ近いスピードで景色を早送りしていきます。1時間40分しか離れていないところにかたや東京の1等地と呼ばれる住宅街に住んでいる消費者の方がいて、逆に田舎にはこれだけの大きな田園という生産地と生産者が存在する。わずか1時間40分しか離れていなのに。そこの時間に衝撃を受けた私は「やろう!生産者と消費者を少しでも近づけよう。そうすれば生産者は今以上に有利に米の販売ができ、更に消費者はより新鮮なお米を食べることができる。自分が生産者から消費者に直接商品を届ける米業界の新幹線になればいいんだ。」と。
でもそこでひとつの根本的な疑問が産まれました。「あれ?私には今直接取引している個人生産者がいないや・・・・。」まさにお笑いのオチみたいな話です。そしてもうひとつおまけに「販売先の個人消費者もいないや・・・。」(笑)しかしながら私はその思考をあきらめませんでした。個人生産者がないなら自力で0からつくればいい、個人消費者が0ならつくればいい。そう思い立ったらどこまで出来るかわからないがまず農家さんに飛び込んでみるしかない。
だって今、目の前にこれだけの広大な田んぼが映しだされ、その素材が家を一歩出れば沢山田んぼがある。これが「地の利」というやつだ。ここに住んでいるだけで財産。東京では一歩出ても公園はあるが田んぼは無い。田舎でできることがこんな近くにあるのになぜ私はこれをやらなかったのだろう。米穀業界に足を踏み入れてこの時、約10年最も肝心な源泉の部分を知らずして過ごし逆に10年かかってやっとこの1つの答えにたどり着いた瞬間でした。その年私は「株式会社東穀」を設立し独立開業をしました。
どうせつぶれるだろうの目
開業時平成19年収穫の秋真っ盛り、私はこれまたおきまりでお金もないので開業に買ったものは中古の事務所用プレハブと事務所電話と3万円の中古の原付バイク。今思うとこの原付バイクが最も活躍したマシンで、このバイク1台で田んぼの中に「お米高価現金買取します。」というチラシを作って田んぼ作業している農家さん一人一人に飛び込みで「お米売ってください」とお願いして回りました。
生産者さんの皆さんはその活動に対してとても閉鎖的で、言われる言葉は「こんなプレハブ事務所ではいつでも米もって逃げられるね」とか「金が前金なら売ってやってもいいぞ」とか「他業者の倍の価格で買い取ってくれるならいいよ」とかまあはっきり言えば相手にしてもらえていない。年も若いせいか冷やかしの言葉がほとんどでした。認知度が全くないこと、米はJAに出荷することが当たり前の時代だったため、こういった活動は基本的には農家さんには馴染まないことを露骨に肌で感じました。
そんな中その年にお米を売ってくださった生産者さんは42人でした。これほどまでに大変なものだったのかと思いました。何故なら前職では1俵100円でも販売先の米穀店や仕入れ先にメリットがあればお米なんていくらでも買えるし売れる。だから生産者さんにだって同様に「他社よりも1俵当たり100円でも高く買います」と言えばいくらでも米は買うことができる、と思っていたのが大きな誤算でした。生産者さんはとても警戒心が強く、まして新参者の商売人が接近してくることにとても警戒するものであることを私は全く理解しないままこの事業に足を踏み入れたことが大きな壁となりました。
この時、実は私の会社の運転資金は底をつき既に50万円の預金残高を切り新規の資金調達のあては無く、開業1年目にして「倒産」というあまりにスピーディーで呆気なく、ある意味目指していた「米業界の新幹線はやて」に私は乗車してしまっていたことを実感したのでありました。