【第1回】EC素人集団 「米・雑穀のみちのく農業研究所」

ECを始めて実質3年の素人集団が「楽天ショップ・オブ・ザ・イヤー2015」と「ふるさと名品オブ・ザ・イヤー」受賞するまでの軌跡・・・・
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【第2回】https://ecnomikata.com/column/9084/
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「ネットショップが輝く『楽天市場 ショップ・オブ・ザ・イヤー』https://ecnomikata.com/ecnews/strategy/7871/
「地方の名品を発掘!ふるさと名品オブ・ザ・イヤー」
https://ecnomikata.com/ecnews/strategy/8363/

 はじめまして「米・雑穀のみちのく農業研究所代表取締役の長濱洋平」です。

 今月、私は宮城県大和町吉田という500~600世帯くらいしかない、小さな山の麓のど真ん中で田んぼづくりをしています。田んぼづくりといってもはっきり言ってこの時期4月の宮城県は泥仕事、土をほじくり返して田植えをする準備の仕込み仕事です。なぜこんなことをしているかというと、この農場は私の会社で運営する「米・雑穀のみちのく農業研究所」楽天市場店・Amazon店「米の将軍」、Yahoo!ショッピング店の販売商品・「米」を育成する源泉圃場なのであります。

 さて、皆様には、「EC」と「田んぼ」が全く関係性のないことに捉えられると思います。
確かに私は2015年の楽天市場ショップオブザイヤー(以後、SOY)米ジャンル賞を受賞した「米・雑穀のみちのく農業研究所」の運営者です。なぜ私が受賞できたのか?私も未だ明確な回答が見つかりません。ただ、SOYを受賞するまでの道のりをありのままお話することは可能であると思います。

 そして最初にお断り申しますが、私はPCが苦手で未だ「アンダーバー」すら自力で出すことが出来ませんし、「HTML」は勿論、「クラウド」だの「デフォルト」だの専門用語は全くわかりません。でもそんな用語を使うと話が格好良く見えるので頑張って使おうと思っているのですが、全く使いません。というか使えません。先程の話に立ち戻りますがここの地域には、全くそんな話をする若手などいない村ですので一言でいうと「寡黙」なんです。そんな私のSOYを受賞するまでをお話させていただきます。現在ECをされている皆様、これからECを目指す皆様に少しでも何かしらお力になれれば幸いです。お米のトーコク代表取締役 長濱洋平

厳格な父と母に産まれた~「自慢の高校4年生」留年との出会い~

厳格な父と母に産まれた~「自慢の高校4年生」留年との出会い~

 私は昭和49年宮城県仙台市に産まれ、私の父は上場企業商社のサラリーマン、母は元高校の体育教師という真面目なお見合い結婚の家庭に産まれた5人兄弟の長男でした。父の職業柄、わたしの幼少から学生生活は、入学式をした学校で卒業式をしたことがないほどの転勤族でした。

 物心つきはじめた私の高校生活は、部活動は転々とし、最終的には花と緑を愛する園芸部に所属しておりました。なぜかというとほぼ帰宅部に近い部活動だったのと好きな女性がその部活にいたのと当時「ヘビメタバンド」活動に情熱を注ぎ込んでおりました為、放課後の自由時間が沢山あるという動機で入部しました。

 高校2年の春休み深夜12時過ぎに当時ヘビメタバンドをやっており夜のヘビメタバンド活動より帰宅をすると私の母上がめったにないのですが玄関先まで出てきて「洋平・今日学年主任の先生来て『お宅の息子さんは現級留め置きとなりました。以後の高校生活をどうするのか家族でお話合いください』と言って帰られたわよ。何をやっているの?」と強く問いただされました。

 しかしながら脳内ヘビメタな人間ですからいまいちそういった和風味な言葉の意味が解っておりません、というか母上がこの上なく落胆しているので「きっと相当悪いことが起きたのだろう」と空気は察知いたしました。でも「現級留め置き」という和風味の言葉の意味が解らずここは勇気を出して聞くしかないと思い、私は聞きました「母上、現級留め置きとは何ですか?」すると母上はさきほどより深いため息をつき更に落胆いたしまして今度は涙を流しながら一言、言いました。

 「留年よ!留年!!」と。

 私の中でやっと理解が出来ました。でもその瞬間こう思いました「あっ、オレついに行くところまで行ってしまった。前々から人よりバカなのはわかっていたけれど、エンブレムまで受賞してしまった。」そして次いでよぎったのが「おれ、高校卒業できないでこのまま中退するのかなあ?」「もう一年高校2年生やるにしても1歳年下の奴らに白い目でみられながら、あと残り2年をすごすなんて恥ずかしくて途中で登校拒否してきっと自主退学するんだろうな?」だとしたらこのままきっぱり退学してヘビメタに生きよう!渡米するか!などと考えましたが、「待てよ、これでオレ卒業したらこれヘビメタ(詩)にしたらこの特殊な同じ思いをしたことのある世界中のやつらがきっとファンになってオレのCD買ってくれるよな~?」「ここで諦めたら何も残らないよな」などと壮大な人生計画をあさはかにも企んだ勢いだけの17歳の夜でありました。がしかし、今思えば私の人格の形成を決定した出来事はこの留年事件だったと思います。

 今私がやっているお百姓仕事は泥まみれで爪は黒く、人に話すとなぜか笑われます。それをいま仕事にできるのはこの留年生活で味わった同級生や下級生から「あいつダブったんだぜ」という冷ややかな目に毎日さらされたおかげで強くなれたのかもしれません。高校卒業後私は渡米することを決意し、ギターの先生をやりながらアルバイトをして夢に向かって貧乏生活まっしぐら。もちろん実家暮らしでタダ飯を食わせてもらうダメ男でした。親の有難みは今になってわかりますが、この時はわからないものですね~^^~。

 父は既に他界し、母上は現在地元で40人くらいの生徒さんにダンススクールを開講して先生をやっています。その母上の姿を見ると私は「地域コミュニティって大事だな」「地域に貢献している母だな」と誇らしく思える自慢の母。私が高校時代こんなダメ息子を毎早朝、新聞配達しながら育ててくれたこと、今でも鮮明に脳裏に焼き付いてます。そんな母上にこの場を借りて最後に一言だけ謝りたい「たくさんの迷惑をかけてごめんなさい」そして迷惑だけでなく「留年した年まで修学旅行行かせて欲しい」と2回も修学旅行に行きたがってごめんなさい。(謝)

さらばヘビメタ~借金との出会い~

さらばヘビメタ~借金との出会い~

 事情があって渡米の夢は叶わず結局、私は神奈川でサラリーマンをやりました。22歳になりその当時私は関東でお米の卸問屋でサラリーマン4年目の給料10万円程度の1K一人暮らしのビンボーサラリーマンでしたが、私の地元宮城県の実家の父がある夏の日、脳梗塞で倒れ、母上より「お父さんがベッドから降りられなくなって、二階の階段から降りてくることすらできなくなったの。どうしよう・・・・。」と一本の電話が私にかかってきました。

 急遽、一時的に実家に戻らなくてはならなくなりました。そんな事件と同時に私に数千万円の借金の連帯保証がある日突然やってきます。若干22歳、給料10万円・高卒の私が社会で見た最も大きな現金はサラリーマン時代の米の集金代金の40~50万円が最高。そんな私に数千万円の借金の連帯保証をするかしないかの究極の選択がのしかかってきました。一週間眠れませんでした。食事も喉を通らず、もともと私は酒が飲めない体質の為、幸か不幸か酒に溺れる現実逃避すらできません。

 悩みました、彼女もいます、結婚もこれからです、人生全てが灰色に見えました。ちょうどその時期お盆の帰省の時期で地元の友達とある居酒屋で8人ぐらいで寄合い近況を報告する会がありました。「よくある帰省飲み会」っていうやつです。

 友人は皆社会人4年目にして「主任」になったとか名刺に役職がついたとなどといった華々しい成長を笑顔で語り合う、そんな場面でしたが私の心の中身は「オレ、これから場合によっては借金大王になるんだよなー」ととてもその会話に混ざれず、いつもなら自分から二次会のセッティングを行う私でしたが、二次会を断って一人帰ったことを今でも忘れません。彼女にも打ち明けられません。結婚の話などこちらから切り出せず彼女と未来の話を語るのにいつもどこかビクビクしていました。

「借金と向き合う決心」 ~無敵になる19年前の1通の手紙との出会い~

「借金と向き合う決心」 ~無敵になる19年前の1通の手紙との出会い~

 そんな最中私を救ってくれた人がいます。サラリーマン時代上司だったF氏とその会社の社長故Y氏です。F氏の言動や行動は正に「ネバーギブアップ(あきらめない)」でした。当時の社長故Y氏は私に社会人とは他人との「競争と行動」ではなく、常に自身の心で「競創と考働」をする。自分に厳しく。本当の敵は自分である。とくに経営者は孤独である。さぼろうと思えばいくらでも好きにさぼれる。だからこそ危険なんだ。「長濱君なら商売の感覚大いにあり」とあるとき1通の手紙で背中を押してもらいました。その手紙(19年前)は今でも私のデスクの真ん中に挟めてあります。

 ここで話を整理しますと、つまり日々前述の思考を絶え間なく続けると・・・・
   
 「競創と考働」+「ネバーギブアップ(あきらめない)」=無敵

 無敵の法則、それはマイナスもプラスに変える力があるのだと私は感じました。実はY社長とF上司は既に実践していました。なぜならY社長も赤字の会社を黒字に転換することを正に今この私が就職している会社で3年で行っていたのです。

 そんな人がこんな身近に目の前に存在したのです。更にY社長の背負っていたマイナスの金額は、私とはケタ違いでした。私は、その社内業況を聞いたとき衝撃が走りました。
社員30人以上いる会社の負債総額が私の悩んでいる負債総額の「0」桁が1つ違うことに、「なんて自分は小さいことに悩んでいたのだろう?」
その日から目標はただ一つ「今の自分の数千万の借金を3年で返してやろう!」「毎年00千万×3年で返済!」と怖いものでも勇気をもってあきらめず恥も外聞もなく正面からぶつかっていく事に覚悟をしました。

 翌週私は勤続約4年のサラリーマンを退社し、さらにその翌日、某銀行の支店長室で約束手形の連帯保証人欄にサインをしました。

それが、経営者へ、みちのく農業研究所への第一歩のはじまりでした・・・・。