【第七回】ヨナーイ佐々木のEC内緒話~どん底から這い上がった男の成功運営ノウハウ
【テラオ株式会社 ヨナーイ佐々木のEC内緒話~どん底から這い上がった男の成功運営ノウハウ】
オリジナルの日本酒と型番の自転車グッズ。どちらでも無駄なお金をかけずに成果を上げた著者のノウハウを全10回でお届けします。
本当に。本当に苦しかった長く暗いトンネルの出口がやっと見えたかもしれない!そう思った矢先。
思いもかけなかった「あの日」がやってきました。
☆バックナンバー
・第一回「27歳職歴なし無職(借金有り)からの出発」
https://ecnomikata.com/column/9195/
・第二回「パソコンを持たないネットショップ店長誕生」
https://ecnomikata.com/column/9380/
・第三回「思わぬヒット商品、誕生。」
https://ecnomikata.com/column/9596/
・第四回「強みを生かすとヒットが生まれる。」
https://ecnomikata.com/column/9886/
・弟五回「評価されなかった頑張りと結果。」
https://www.ecnomikata.com/column/10144/
・第六回「チームビルディングが教えてくれた。」
https://ecnomikata.com/column/10330/
それでもあきらめられなかった。
私は両親とともに岩手県の沿岸南部の出身です。
父が釜石市の海沿いの集落、母と私が大船渡市で生まれ育ちました。
当然、震災では親類や友人、知人が大きな被害を受けました。
もちろん震災時のお話を割愛なんてできませんが、私の個人的な震災の思いを詳細にお話するよりは、ここは敢えて「商い」に関することにフォーカスしてお話ししたい思います。
「これは数日は仕事にならんなぁ。あちこちで被害も大きそうだし大変だなこりゃ。」
もちろん経験したことのないような規模の地震でしたが、実はそんな程度が震災発生直後の最初の感想でした。
すぐに自分の認識の甘さを骨の髄まで思い知らされたのですが…。
震災直後から程なく、内陸の盛岡も完全に停電して信号機すらつかない有様で大混乱。
復旧のメドもまるで立たない。
とにかくどう考えても仕事にならない以上、不測の事態に備えて自分は会社に残ったものの、スタッフはすぐに帰宅させ連絡があるまで自宅待機するように指示しました。
ちなみに当時は単なる課長職。
完全なる越権行為なのですが「社長がいたらきっと了承する」と解っていましたので、渋る各部署の上司を自信を持って押しきれました。
もちろん、津波が襲った沿岸部はそれどころではなかったわけですが、あらゆる通信手段や情報メディアが遮断された私たちには「沿岸に津波が来て大変らしい」程度の情報しか得られず、それがどれほどの規模なのかすら知ることはできませんでした。
テレビなどで中継を見ていた他の地域の皆さんの方が、詳しい状況を把握していたと思います。
停電、断水、通信インフラの遮断に加えて、ガソリンや食料はじめ全ての物資の流通が滞ってしまい、迂闊に動く事も出来ません。
襲い来る余震に怯えながら、枕元にいつでも逃げだせるように靴を置きつつ、数日を半壊した自宅の片づけなどをして過ごしました。
震災から3日後。
停電が復旧して慌てて付けたテレビに映ったのは、自分が生まれ育った町の信じられない光景でした。
にわかには信じられない光景に、本当に言葉を失いました。声を出すことどころか呼吸すら出来なかったんです。
すぐにでも駆けつけなければ!みんなが大変な目に遭っている!そう思いましたが、そもそも東京→福島にも匹敵するための沿岸部までの往復約250kmを移動するためのガソリンがまったく手に入らず。
何よりも、物資も持っていけない、医療の知識があるわけでもない、そんな自分が沿岸部に行っても、さほどの役に立てないどころか迷惑になることが解りきっていましたので、「必ずすぐに行くからね。」「どうかみんな無事で。」と心に誓い祈りつつ県職員である伯父などに託して、自分は期を待ち自重しました。
盛岡にとどまることを選択したものの、その一方で。
お酒の製造も、製品作業も、営業も、出荷も。すべての営業活動が当たり前ですが…出来ない。
震災直後から停電・断水で発酵管理が出来ない中、杜氏や蔵人が自宅にも戻らず蔵に泊まり込んで守った酒なのに、このままではその酒をムダにしてしまう。
仮に早期に再開できたとしても、この沈痛な空気が覆い被さり、自粛が叫ばれている中で誰が日本酒を飲むんだ?
ジリジリと焦っても、ロクな手も打てずに、2011年3月の売上は前年比で34%。震災当日以降はゼロの売上。
当時のあさ開は、ECでの売上げ比率は、まだそこまで大きくなく、年間売り上げの70%はBtoBのリアルでの卸店さん相手の商売。
しかも、そのほとんどが岩手県内での売上で、中でも被災した沿岸部への出荷が40%という構成比。
つまり、これから先ずっと「売上は最低でも28%減」。
その事実に気が付いて、背筋が凍る思いがしました。
「これは…間違いなく会社が潰れるぞ。いやそれどころか地域経済が破綻する可能性だってある!」
自分たちあさ開が好きでお酒を飲んでくれるお客さんが。
やっとよちよち歩きが始まったばかりの俺たちのチームが。
ようやく光明が差し始めた会社の明るい未来が。
あんな思いをしてまであきらめなかった7年間が。
全部、全部失われてしまう!
「・・・絶対にあきらめるもんか。内陸にいる俺らは津波で流されたわけじゃない。出来ることはまだきっとある!あきらめてなんかいられない!」
人生、仲間、商売、会社、地元、未来、家族。
自分の人生の中で今まで生まれ、そして必死で磨き上げてきた色んな歯車。
それらが「カチン!」と音を立てて噛み合った瞬間でした。
ハナサケ、ニッポン!
ネット環境と宅配便のインフラが回復するのを待ちながら、今後の展開を考え、そのまま社長室に飛び込んで「パートさん含め従業員の解雇をしないこと」「ネット販売にリソースを割くこと」で被災した県内の売上をカバーすることを具申しました。
ネットが回復した瞬間に、ブログでお客さんに無事を知らせるメッセージを送りつつ、自分たちの姿勢を示すことに注力しました。
特に震災直後は衝撃的な報道が多く、日本中に「不謹慎と自粛」ムードが漂っていたため、このままでは非常にまずいことになっていくと感じていました。
そこで震災からこの期間に「不謹慎と自粛」「沿岸の被災地を訪れて」というブログを書いて発信すると、本当に大きな反響を頂戴しました。
当時の石原東京都知事の「桜が咲いたからといって、一杯飲んで歓談するような状況じゃない」という被災者に配慮して今春の花見は自粛すべきだとのコメントがありましたが、私たちは他の東北の酒蔵さんと一緒に、
過剰な自粛によって震災からの復興も遅くなるという姿勢で、共同サイト「ハナサケ!ニッポン!」を立ち上げ、YouTubeに東北地方の経済的二次被害の惨状を訴える動画の投稿を行いました。
投稿は新聞・ニュースなどで取り上げられ、賛同してくださった著名人も運動に参加してくださいました。
この時ほどインターネットの力を、ECの力を実感したことはないかもしれません。
情報自体の発信力もさることながら、他の酒蔵さんと違ってECによる直接販売を死に物狂いでやってきた私たちには支援の「受け皿」があったのです。
結果として、4月~6月は前年対比でおよそ250%の売上となり、私たちは会社存亡の危機を免れることが出来ました。
当時、スタッフたちに話していたことがいくつかあります。
「本当に支援を受けるべきは沿岸の人たちだけど、会社も商品も失い商売で支援を受ける手立てがない。」
「俺たちはその“仲立ち”になるためにも今はありがたく支援を賜って、すぐに“支援する側”に回ろうな。」
「きっかけは震災の復興支援だとしても、岩手っていいな、日本酒っていいな、って思ってもらえる商いをしよう。」
また、夏ごろからはその言葉通りに「支援する側」に回ることができ、お客さんにもご協力いただき被災した沿岸部でチャリティーイベントを開催出来ました。
秋ごろからは「キャッシュ・フォー・ワーク※」で作られた手仕事商品の販売をスタート。
※キャッシュ・フォー・ワーク(Cash for Work) 日本では「労働対価による支援」と訳され、被災された方々自らが復旧・復興のために働き、対価が支払われることで復興を促す支援プログラムのことを意味します。
この取り組みは2016年8月現在も継続しており、結果として2,500万円以上の支援をお届けすることが出来ました。
誰かが善意で買ってくれた、沿岸で造られたミサンガやキーホルダー。
そのおかげで、仮設住宅にテレビを買えて、紅白歌合戦を見ながら年越し出来たり、お孫さんにジュースを買ってあげられたり。
金持ちでも権力者でもない、建築や医療の何か特別な技能があるわけでもない私たちでも、「がんばっているひと」と「おうえんしたいひと」をマッチングすることで、これだけの意味のある支援が出来たのは、のちの商売の大きな自信になりました。
結果として。
2011年は前年比150%以上の売上となりました。
これは間違いなく復興支援のご注文のおかげです。
でも、震災復興の大きな動きが終わった2012年も2013年も、震災前の1.5倍に跳ねあがった売り上げを下回ることはありませんでした。
私たちがずっと取り組んできた「生涯のお客さんと出会うための商売」はきっと間違っていなかった。
少しだけそう思えた瞬間でした。
次の世代へ託すもの。
私の場合、震災で最も大きく変わったことの一つが「死生観」かもしれません。
「自分が明日も生きている保証なんてどこにもない」
「あれ?俺がいなくなったら会社も部下たちも困るよな。これ。」
それが極論だとしても、せいぜい会社に要られるのは残り20年ほど。そう気が付いてしまいました。
それまでは部下たちに自分がしたような辛くてしんどい経験をなるべくさせずに、自分の傘の下で健全に育ってほしいと考えていましたが、それが「部下たちの成長の機会を奪っているだけ」ではないかと考え始めました。
人間、変われば変わるもんだと自分でも思うのですが(笑)、この頃から自分の仕事をどんどんと部下に渡し始めました。
いわば震災後の私は「現状の自分を失業させるため」に働いてきたのかもしれません。
思い返せば「だから」だったんでしょうね。
当時の私には「愛着がある」なんてもんじゃない、自分の人生ともいうべきあさ開と仕事を辞める。
いまだ復興の途中にある地元・岩手を離れる。
そんな選択肢は脳裏をよぎることすらありませんでした。
2013年の夏。
あさ開の経営の体制が大きく変わり、私自身も退職を視野に入れた状態で不安定な気持ちで働くことを余儀なくされる事態となりました。
それでも腐ることはなく「これがあさ開での最後の仕事になるかもしれない。」「自分の仕事の集大成になるかもしれない。」「何とか源三屋次の世代に残したい。」
そう思って、朝早くから夜遅くまで休みなく働きました。
家庭も家族も置き去りにして、全力で自分の仕事だけに集中し、最繁忙期の父の日に取組みました。
その父の日をやりきって、過去最高の売上を達成した直後に私を待っていたのは突然の父の死でした。
今でも色んな言葉が頭を巡りますが、やっぱり一番は「後悔」です。
もっと色んなことをちゃんと話せばよかった。
もっと一緒の時間を過ごせばよかった。
もっと色んなことが自分には出来たはずなんだ。
それなのに…。
もちろん。
自分がしてきた仕事には誇りも愛着もあります。
「自分の最後の仕事を全うする」
という決断も悔いてはいません。
それでもですね。
岩手の良いものをお客さんに伝えて喜んでもらう。
会社の仲間が一生懸命に働ける場所を一緒に作り守る。
そう思って一生懸命に働いてきたつもりだったけど、俺は自分の身近な人たちすら幸せにできていないんじゃないか?
そんな思いが溢れてきて止まらなくなってしまいました。
あさ開での10年間、本当に仕事と仲間に恵まれて、ずっと夢中になって働いてきた自分が、初めて自分自身と家族の人生や将来、大切な人たちのことを考えました。
あのままあさ開で働き続けることは少しも嫌ではありませんでした。
でも。
意図しなくても、その代償として大切な人たちを幸せにできなかったり、哀しい思いをさせるのは嫌だな。そう思ったんです。
当時の私の収入や家の蓄えでは、もし家族に何かあったとしても支えることすらできない。
母親が足腰立たなくなったりしたら、それだけで結局会社を辞めなければいけません。
自分がここに残った選択の最後に、後悔が残ってしまったり誰かのせいにするのはやっぱり嫌だな。
そう思っちゃったんですね。
ちょうどそんな最中に、結婚の話が出ました。
父の死の以前からも、ずっと支えてくれた相手。
もちろん嫌なわけはないし、むしろ自分には不釣り合いなほど。
ちゃんと自分の大切な人を幸せにしたいなと思いました。
でも。
あさびらき十一代目源三屋という、自分の人生にも等しい場所から去ること。
一緒に苦楽を伴にしてきた仲間たちを置いていくということ。
いまだ復興の道半ばである大好きな地元・岩手を離れるという選択。
そう簡単に決断なんてできず、どれか一つを選ぶことなんて正直とても出来ませんでした。
でも、前述のように仕事に関しては震災後からずっと
「俺が明日死んだらみんな困るな」
って考えてきました。
人はいつ死ぬかわからない。
それが震災から学んだ一番大きなことでした。
だから。
震災からの数年は「次の世代」に自分の大好きなお店を渡すことを意識しながら働いてきました。
岩手を離れることにもやはり抵抗はありました。
ただ、特に震災後の数年で日本中をアチコチ飛び回って実感したのは、思っていたより「意外と近いな」ということ。
同じ東北にある石巻に行くよりも、実は関西の大阪に行くほうが時間的には早いんですよね(笑)。
それと。
震災後からずっと自分が培ってきたネット通販のノウハウを広めて、復興支援をしたい、東北のみならず地域振興のお手伝いをしたいと考えるようになっていました。
だって、どこかに昔の自分みたいに、まだ始めてもいない今の自分の人生を「詰んだ」と思ってる人がきっといっぱいいるんです。
その人たちに「大丈夫!やれるって!」と声をかけてあげたい。
自分の経験が役に立つなら惜しみなく伝えたい」。
そう思うようになっていました。
このコラムの執筆も、そんな思いからお引き受けさせて頂いた次第です。
色々と考えて
・彼女も家族も大切な人を幸せにする
・源三屋を捨てずに次世代に繋ぐ
・自分の地元への復興支援だけではなく、世の中の商売人を元気にするお手伝いをする
物わかりのいいフリをして無理に取捨選択をするのではなく、自分のやりたいこと目指すことのそのすべての「総取り」をすることに決めました。
15年前。
実家の巨額の借金が発覚して、都落ちのような気持ちで東京から岩手に戻ってきたとき。
これから何もないこのクソ田舎でやりたくもない仕事を生きるために仕方なくやって。
死ぬまでの時間つぶしみたいにつまらなく生きていくんだとそう思っていました。
たまたまアルバイトに応募した会社。
パソコンも全然わからないくせにネットショップを立ち上げて10年。
忙しくて忙しくて毎晩徹夜で働いたこともあります。
会社で孤立してしまい、辞めようと思ったこともあります。
初めてランキング1位になった時はうれしかったなぁ。
楽天ショップ・オブ・ザ・イヤーを自分たちが受賞したなんて、とても信じられませんでした。
震災ですべてが終わったと絶望し、たくさんの方のご支援で商売を立て直すことができて。
無我夢中で走り続けてきて、気が付けばもう10年が経っていました。
2014年8月。
大好きな仲間がいる大好きな会社、そして大好きな地元に別れを告げ、妻と結婚し大阪で「自転車グッズ」というそれまでと全然違う商材を販売して生きていくことを決めました。
岩手から大阪へ。
オリジナル商材からいわゆる型番商材へ。
サラリーマンから経営者へ。
何もかもが「真逆」な新しい冒険が始まりました。
余談ですが、あさ開を退職する際には1年前にお話しして入念に引き継ぎをして、さらに退職後も1年間だけ毎月毎月岩手まで帰っては、フォローアップのコンサルティングをさせてもらいました。
もうね。
お前は辞める(た)のに、いつまで会社に来る気なんだ?っていうね(笑)。
次回、第八回の予告(とおまけ)。
※おまけの話
2ページ目以降に、今回ご紹介した震災直後に書いたブログ記事を転載いたしましたので、宜しければご覧ください。、
私の「働く理由」や「商いの原点」はここに根差していると思っています。
このコラムのタイトルは意図的にそうしているのですが「お金をかけずにノウハウだけを得る」上手い方法なんてありませんし、あったとしてもそんなもんは所詮は長くは続きません。
あなたがすぐに手間もお金もかけずに出来ることは「他の誰だって出来ること」でもあります。
私がこのコラムでお伝えしたい一番のことは「自分が商売をする意味は何だろう?と考えてみましょう」という、とてもシンプルな事です。
でも、ちゃんと過去や現在の自分に向き合って考えていくと、そこには付加価値も差別化も必要なくなって行きます。
自分自身は元々が1人しかいないわけですから「結果として」誰とも似ないんです。
さてさて。
いよいよ次回から、岩手の田舎もんの兄ちゃんが右も左もわからない大阪で自転車業界で奮闘開始。
ぶっちゃけ。
「上手いこと逆玉(の輿)に乗った」
「オリジナル商材と違って型番は甘くない。所詮は価格競争だよ。」
「サラリーマンだからやれたかもしれないけど、経営者となるとまた話は別だよ。」
ああ、もう散々に色んなことを言われました。
よーし、お前ら見とけよ?死ぬほど売れない日本酒を色んな目に遭いながら必死こいて売ってきた男を舐めんなよ?と思いましたね(笑)。
次回は9/2(金)頃の更新予定です。
宜しければぜひ「いいね!」&シェアをお願いいたします!
もう喜んで現在の飯のタネまで全公開いたしますので(笑)
次のページにて、当時のブログを公開します。
おまけ:2011年3月23日ブログ「不謹慎と自粛」
これは書こうか書くまいか私自身も非常に迷った事なのですが、今後とても大切な事だと思いますのでここに書かせていただきます。
震災の発生後から「不謹慎」と「自粛」という言葉を、メディアやインターネットなどを通じて非常に多く目にしました。
私自身も含めての事ですが、世の中全体が「不謹慎だ!」と非難される事に怯えて、おっかなびっくり行動しているように感じています。
確かに。
被災地の家屋や店舗から火事場泥棒を働く。
悪質なデマをチェーンメールなどで流布する。
今すぐ必要ではない食料品やガソリンを買い占め、それが切実に必要としている人たちのところにまで届かない。
これらは被災者の方々を苦しめ、復興を支援する人たちの足を引っ張る、紛れもない「不謹慎」な行為で、私も今すぐ「自粛」するべき行為だと思っています。
しかし、その一方で。
例えば被災地ではない地域に住む皆さんが、家族揃って外食にでかける。
職場の仲間たちとお酒を飲みに行く。
友達と連れ立って映画にでかける。
ネットショッピングを楽しむ。
これらは本当に「不謹慎」な行為なのでしょうか?
『被災地の人たちが苦しんでいる、そんな時に!』
確かにそういったご意見もあるかと思います。
でも、これらの事を「不謹慎」と考えて「自粛」する事は、心情的な部分ではともかくとして、決して被災者の皆さんの助けや被災地の復興の支援にはならないと、私自身は考えています。
不況にあえぎ苦しんでいた日本を、かつて無い大災害が襲いました。
岩手県でも沿岸部は津波による壊滅的な被害を受け、直接の罹災を免れた地域であっても経済活動が大きく停滞し、将来に目途も立たないような状況です。
これからどれだけの事業者が倒産や廃業に追い込まれるのか、今の段階では想像すらできません。
物資の救援、義援金、医療の充実、精神面のケア、社会生活の再建、地域経済の復興。
被災地ではこれからの課題が山積みで、それは生きるか死ぬかの切実な問題です。
そういった意味では震災も復興も、今後ずっと続いていきます。
しかし、その一方で元気な人間は、世の中を回していかなければなりません。
このまま世の中の経済の流れを止めて停滞させてしまうと、その元気な人たちまでもが疲弊してしまい、被災地の復興を支援する事の出来る人がいなくなってしまいます。
先に述べたような本当に「自粛」すべき、明確に「不謹慎」な行為(線引きがとても難しいですが)以外の経済活動の「自粛」は、危機的な状況での「お休み」と、ある意味で同義です。
だから私は誤解を恐れずに、皆さんにお願いします。
制限を受けずに元気に働ける皆さんは、働けない人たちの分まで思いっきり働いてお金を稼いで、使えない人の分までお金を使って楽しんで消費して、しっかりと納税して、どんどん経済を回して下さい。
そしてしっかりとご自身に余力・経済力・体力を蓄えて、可能な限り大きい規模で、そして長い期間に渡って、被災者の皆さんを助けて下さい。
今回の震災で大きく出遅れてしまいましたが、私も絶対に皆さんに追いついてすぐに「支援する側」に回ります。
いま私がテレビの前で涙を流していても、被災者の方は救えません。
医療の知識もありませんし、重機を扱う事も出来ません。
私は南部杜氏の故郷であるこの岩手の大地で醸された日本酒を、世の中に広め伝える造り酒屋の一人の商人に過ぎません。
でもその自らの仕事を通して人と繋がり、社会活動に最大限に貢献することこそが、自分が復興の役に立てる一番の方法だと思っています。
不謹慎という言葉を辞書で引くと、つつしみのないこと。また、そのさま。とあります。
こんな日本中が大変な時。
『ノンキに酒なんて飲んでる場合では無いだろう!』
まさに「不謹慎」だと考える方もいらっしゃるでしょう。
でも、私は誰かの助けとなれるような、「心ある不謹慎」の道を、これから敢えて進んで行きます。
我々が造り、商っている日本酒は、飲まなかったところで今すぐには別に困りもしない、いわば「不要不急」のものです。
それでも。
私は今までと同様か、それ以上に、美味しく楽しいお酒が明日への活力を生み、人を幸せにしてくれると信じています。
今はまだ被災地では命をつなぐ緊急の「復旧」こそが急務ですが、その後に続く長く険しい「復興」への道のりの途中で、誰かの気持ちが挫けそうになった時。
その時には、きっと美味しいお酒が人々をつなぎ、明日への活力となって、世の中を元気に幸せにしてくれると信じています。
そして私が一生懸命に岩手の地酒の魅力を皆さんに伝える事が、地域にお金を落とし雇用を創出し、大好きな岩手の復興につながる。
そう固く信じています。
私が生まれ育った海辺の街は津波の中に消えました。今はもう記憶の中にしか存在しません。
でも、次の世代の人たちが笑って暮らせる新しい街を、被災地の人間だけでなく皆が一丸となって、これから作っていかなければなりません。
だから、今すぐには難しいのだけれど、日本酒の魅力をお客さんに伝える自分の仕事に、これまで以上に明るく笑顔で励んで行こうと思っています。
地域の一員として、日本人として、この未曾有の震災からの復興の一助となるように、これまで以上に頑張ります。
その中でより具体的な支援策を、模索して行きたいと思っています。
すでにお客さんからも、少し落ち着いたら被災者の皆さんにお酒をお届けするなどの素敵なアイデアを頂いております。
ぜひ皆さんのお知恵も貸してください。
震災の直後から、それぞれの自宅も大変な時に一度も帰らず、電気も重油も無くなった酒蔵に泊り込んで、藤尾杜氏と蔵人たちが必死に守り続けた美味しいお酒たち。
皆さんが困ってしまうぐらい、これまで以上に一生懸命にご案内していきますので、覚悟しておいて下さいね(笑)。
おまけ:2011年4月4日ブログ「沿岸の被災地を訪れて。」
昨日4月3日(日)。
ガソリンも手に入り、震災後に初めて出身地の大船渡市に行ってきました。
事前の報道などである程度は覚悟はしていましたが、初めて自分の眼で観た市街の凄惨な光景。
始めはまるで悪い夢でも見ているように何も考えられず、ただただ呆然とするばかりでした。
自分がかつて通っていた小学校の体育館が避難所になっており、そこにわずかばかりの物資をお届けしました。
世話役の方にお話をお伺いすると、この避難所では食料などの物資や燃料類は、先週から徐々に安定的に供給されはじめているようです。
しかし被害の大きい地域では、今もなお水道も電気もライフラインは全て止まったまま、さらに道路が復旧せずになかなか物資が届かない避難所もあり、そちらではまだまだ苦境が続いているそうです。
親類の家に立ち寄ってお見舞いを渡した後で、そのまま陸前高田市まで行ってから折り返し、釜石市と大槌町の境にある室浜という海沿いの父の生家があった地区を訪ね、そのまま大鎚町、山田町、宮古市と海沿いに北上して沿岸部を回って帰って来ました。
陸前高田から宮古までのおよそ120kmの海沿いには、まともに原形をとどめている市街や集落がただの一つも無く、街そのものが壊滅している地域もありました。
出発する前から、いま現在はその沿岸地域に住んでいるわけでもなく、内陸の盛岡で家も仕事もある恵まれた環境にいる自分は「絶対に泣くまい」と心に決めていました。
それでも次々と目に飛び込んでくる、自分の記憶とはかけ離れた姿の街や集落と、青空を映して遠くまで凪いでいる穏やかな海を見ているうちに、悔しさがこみあげてきて涙を抑えられませんでした。
あの日、きっと誰もが普通の金曜日の午後を過ごしていたはずです。
私の従姉妹の高校二年生の娘さんは、サッカーが大好きで女子の岩手県選抜になるほどの選手でした。
親戚のオッサンとは大違いで勉強もすごく良く出来たそうです。
全国ニュースでも報道されたのでご存知の方もいらっしゃるかもしれませんが、彼女は陸前高田市で母親と一緒に避難する最中に津波に襲われ、濁流の中で母親と必死で手をつないで耐えていたものの、やがて力尽き「お母さん」という最後の言葉とともに波にさらわれました。
母親は建物ごとそのまま数百メートルを流されながらも九死に一生を得ましたが、娘さんの方は4日後に制服を着た最後のままの姿で遺体が発見されました。
人の力では抗えない天災だったのだと、仕方が無かった事なんだと。
周囲がどんな慰めの言葉をかけても、母親はずっと離した手を後悔し続けるのかもしれません。
自分の親戚が被災したから言うわけではありません。
あの壊滅した街のそれぞれに、命を奪われた人、そして生き延びても家族を奪われ生活を奪われた人たちが数え切れないほどいます。
あまりに理不尽です。
未曾有の天災だろうと許されていいはずがない。
あの人たちだけがあんな状況で良いわけがありません。
クルマを走らせているうちに、悔しさが腹立たしさに変わり「絶対にこのままにはしておかない」と強く思いました。
凄惨な光景を実際に目にして、自分のこれからやるべき事がハッキリと定まりました。
被災地ではまずは「復旧」こそが急務で、ライフラインの確保や瓦礫の撤去や医療や住居の確保など生活の安定が最優先です。
まず岩手の地酒を通じて地域貢献しながら、その中でも出来る限りのチャリティー企画や義捐金などの協力をしていきます。
私はその「復旧」の段階では、対しては大きな助けにはなりません。
出来る事といえば、美味い酒を紹介すること。
そしてそれをインターネットを通じてお客さんに伝える事ぐらいです。
でもその2つだけだったら他の人にも負けない自信があります。
そのために日々研鑽してきました。
そして次の「復興」の段階では、生活していく基盤となる「働く場所」「安定的な収入を得る手段」が必ず必要となります。
瓦礫の撤去や新しい街の建設で、きっと近い将来に労働の需要は発生しますが、それだっていつまでも永遠に続くわけではありません。
その土地で生き続けるためには、必ず地域に根ざした商売、産業の再生が必要になります。
そして、その時にこそ自分が今まで学んできた事が必ず役に立つはずです。
最初は沿岸の人たちから商品を仕入れて源三屋で販売しても良いし、インターネットで商売を始めたい人向けの無料のセミナーを開催することだって出来ます。
国や自治体、大きな組織の協力を取り付けることが出来れば、それを大きな規模でやる事だって不可能ではありません。
そうすれば、やがてこの震災が人々の記憶から薄れ、今ほどの支援の手が差し伸べられなくなったとしても、その後も自分たちの力で生きていく事ができるはずです。
すぐ傍らまで津波が押し寄せながらも難を逃れ、今は避難所の一つになっている大船渡の市民文化会館リアスホールという建物があります。
きっと避難した人たちが書いたのでしょう。
「津波なんかにゃ、負けないぞ!!」
窓には力強い字でメッセージが掲げられていました。
瓦礫の山のすぐ側では、ガソリンスタンドやコンビニが営業をはじめていました。
一番大変な思いをしている被災地の人たちが自ら立ち上がろうとしている時に、五体満足で家も職場もある自分が悩んでウダウダやっている暇などないのだと気付かされました。
私は自分の仕事を通じて、これから全力で震災に抵抗します。
ぜひ皆さんの力を貸してください。